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September 2006

イルマーレ

Lake 2006年、湖岸の家から引っ越すケイトは次の住人に宛てて郵便受に手紙を入れた。この家を訪れたアレックスは、不思議に思いながらも返事を送る。彼の現在は2004年、これをきっかけに時を隔てた2人の文通が始まる。

 韓国の同名作品をハリウッドでリメイク、時間を越えた文通という現代のファンタジーを詩的に描いている。サンドラ・ブロックとキアヌ・リ-ブスの「スピード」以来の共演が注目されるところだが、こちらは落ち着いた大人のラブ・ストーリーになっているのではないだろうか。よくある手紙やE-mailといった交流であるなら、恋愛にはその距離が問題になるのだろう。ここでは時間という少々複雑な壁に遭遇してしまう。2年の時差がある二人は理解しあえても、2004年当時の二人は他人でしかない。微妙にすれ違う心、2年の時を埋めるには何が必要なのだろう。
 それぞれの立場を比べれば、建築家としての夢を諦めているアレックスと、医者としての将来を目指すケイト。それぞれ過去に問題を抱えているらしいが、心が向かう方向は違うようだ。時間の差以上に人生の歩み方は対照的だろう。そんな二人が手紙によって、ときに励ましあうことになる。将来を夢見ること、過去を受け入れることができたのではないだろうか。しかし、物語はそのままうまくいかないもの。やがて心が通じ合えば、どうしても逢いたくなる。アレックスが2年後の予約をした高級レストラン「イルマーレ」でケイトは待つことに。理論上はそうなるはず。しかし、アレックスは現れず、やがて疎遠になる二人。2006年でなぜ会えないのか?その理由が後に明らかになる結末は、意外な展開を迎える。
 それにしても、ラブ・ストーリーに時間の交錯する展開は、どこか神秘的な感覚を覚える。映像としても、別々の時間で同じ場所を過ごすという、ロマン溢れるシーンは不思議な感覚が面白いものだ。2004年での行為が後に影響を与え、ありえないがここでは未来から過去をかえてゆく。過去があっての現在である、二人に必要なもの、それは自身を見つめる時間だったのではないだろうか。二年の空白は深くは考えないほうがよさそうだが、もう一度、二人の時間の接点を探してみたくもなった。今をどう生きるのか・・・そこから未来も見えるのではないのだろうか。
 

出口のない海

Deguchi 1945年、戦局の悪化するなか海軍へ志願した野球部の並木たち4人の学生は、それぞれの決意を胸に日々訓練に励む。しかし、彼らが乗り込むのは二度と帰ることのない特攻兵器“回天”・・・

 戦後60年を過ぎ、日本の戦争を描いた作品の数々が公開されている昨今。捉え方も変わってきたのだろうか。国家の戦争というより、史実をもとに一般の兵士の視点で描かれているようだ。そこには理想ではなく、実際に戦う兵士の想いが表現される。戦争を体験していない世代としては客観的に見ることができるのだが、当時の兵士たちの想い、そして残された者の想いは感じ取りたいところでもある。戦争の影の部分がこうして映画の題材とされることは、個人においての戦争の意味をイメージできるのではなかろうか。もっとも、ここで登場する海軍の秘密兵器“回天”については知らない人も多いかもしれない。このような兵器が存在したことは、戦争を振り返るには避けては通れないことだろう。
 それにしても魚雷に人が乗るとは、なんとも恐ろしい発想をするものだ。もとが魚雷であるゆえに操縦が難しいのだという。劇中でも描かれているが、厳しい訓練をうけることになるわけで、それは死ぬ為ということ。4人の若者たちは、野球やオリンピックとそれぞれ将来を夢見ていたはず。彼らはなぜ、志願したのだろうか。「愛するものを護る」その為の犠牲である。それほど窮地に追い詰められたのだろうか、狂気のなかにも覚悟を決めた若者の想いが伝わってくる。それを名誉といえるのか?生きて還ることが恥だろうか。そんな風潮が一人の命の重さをも超えてしまう。当時の戦争の現実を垣間見るようで悲しい。
 物語としては、回天搭乗員の個々のドラマがあまり描かれていないのは惜しまれる。彼らが護りたかったもの、護ったものはなにか伝えてほしかった。映画とはいえ史実がモチーフでもあり、そして戦局を変えるはずの兵器の無残な結果がある。あまりに重い現実に、物語は霞んでしまうのだろうか。
 

太陽

Taiyo 太平洋戦争も末期、焼け残った研究所と退避壕で暮らす海洋生物学者“ヒロヒト”。神の子孫として崇められる天皇その人である。戦争を止められなかったことに苦悩し、敗戦の原因に思いをめぐらせ、ある決意をするが・・・。

 いま、なぜにこの作品なのか?邦画でも触れることのなかった天皇という存在を、海外の作品で描かれるのは興味深い。戦時中の指導者を描いてきたアレクサンドル・ソクーロフ監督による“ヒトラー”“レーニン”に続いての作品だという。海外の作品ではえてして偏見に満ちた描かれ方をするところだが、演じるのは日本の役者でもあり、その生活、その存在を淡々と描いている。イッセー尾形の演じる昭和天皇は、特徴ある仕草も似ていて親しみやすい。一人の人間としての姿、苦悩をそのまま写し出しているのだろう。それゆえストーリーと呼べるものはなく、そのまま人物だけを浮き彫りにしているようでもある。もっとも、日本人でも知らないことはあまりにも多いことを痛感するが、世界に人物像を伝えるには良い機会ではないだろうか。天皇を英訳すればエンペラー(皇帝)になってしまう。強権を振るう独裁者に思われていたのかも、もしやいまでも思われているのかもしれない。ここでの姿を見れば、アメリカ兵がエンペラーと呼ぶことには違和感を覚えるところだ。初めて姿を目にしたアメリカ人記者たちが、チャップリンにたとえて驚いているのは滑稽でもあり、想像とはかけ離れた存在であったことがわかるだろう。
 印象的なのは、戦争の責任、そして自らの処遇をすべて受け入れようとする姿。それは神ではなく人としてである。しかし人々が望むのは神だろうか。観る側も過去を避けては始まらない。あらためて昭和の歴史を振り返ってもよいのではないか、歴史に学ぶことがあるのではないかと思える。それは日本にかぎらず世界の人々についても同じだろう。この作品では天皇を描くとともに、取り巻く周囲の人物が印象に残る。SUN「太陽」とは実に的を得たたとえではないだろうか。その立場は望んでいたわけではなく、人々が望んだもの。大きな希望を照らすゆえに、ときに影を作ってしまうのだろうか。

X-MEN ファイナル ディシジョン

Xmen ついに人類はミュータントの能力を無効化する抗体を開発した。これに反発したミュータントたちをマグニートーが率い、人間との戦いを始めてしまう。争いを収める為、人間に味方するX-MENたちであったが、思わぬ敵が立ちはだかる。

 人間とミュータントとの共存という、前2作をとおして描かれてきたテーマはクライマックスを迎える。今回のストーリーでは、キュアとよばれる治療法を人類は手に入れた。これにより、ミュータントの存在意義が揺らぐことにもなる。そして話は唐突かもしれないが、前作で死んだはず(?)のジーンが生還することに。彼女の真の姿、力があきらかになるという。そう、これまで控えめな役回りの彼女がストーリーの鍵を握ることになる。そのあたり、前作からも予感させるシーンが見受けられ、3部作を通してのつながりもよくわかるので、あらためて観直しても面白い。
 今回の見どころは、やはり最後というところでミュータント総登場の戦闘シーンだろう。それぞれ個性のある活躍は見ているだけで楽しめるものだ。さらに、人間にも対抗する武器がある。キュアを兵器として使っているのだ。それでは最初から戦闘を想定していたことになるのだから、人間に反発するマグニートーにも同情はできそうだ。
 そもそも、ミュータントとは病気なのか?それとも人類の進化なのか?その能力や外見から、人間社会から拒絶されてきたミュータントにとってキュアは画期的な治療である。しかし、チャールズたちが言う、能力を社会の為に役立てるという理想はどうなるのか。ときに、その能力が人類にとっての脅威であるのも確かだろう。能力を自己のために使うならば人間にとって危険な存在になりうる。しかし、人類が創り出す新技術も同じことではないだろうか。キュアがミュータントの治療にも撲滅する手段にもなりうるのだから、ミュータントにとっては危険な存在である。その力は制御されなければ単なる暴力、すべてを壊しかねない。これによって両者は対等の立場になったともいえるのだが、手に入れた力をどう使うかは持つ者にゆだねられるのではなかろうか。
 もっとも、人間とミュータントとの対立という二者択一の構図はさまざまに比喩できるのだろう。この物語が終わらないように永遠のテーマかもしれない。

マイアミ・バイス

Mi 密輸ルートの重要な中継地マイアミ。ある日、FBIの潜入捜査官が取引現場で殺害された。密輸組織へ合同捜査の情報が漏れているらしい。内情を探る為、捜査に関係の無いマイアミ警察のソニーとリコが組織に潜入することに。

 かつての人気TVドラマが映画として帰ってきた。当時、製作指揮のマイケル・マン監督が自ら描くスタイリッシュな作品である。映画作品ならではのスケールの大きな、ハードで危険な潜入捜査の世界を垣間見せてくれる。見どころは、フェラーリにパワーボート、プライベートジェットで、あらゆるステージを駆け抜ける二人が印象的。コリン・ファレルとジェイミー・フォックスの扮する、ソニーとリコのキャラクターが魅力的だ。もちろん潜入捜査の緊迫したやり取りも面白いが、フェラーリを乗り回し風貌からも警官に見えない二人が活躍するのは、TV版よりシリアスな面白さがある。
 注目したいのは、よくある刑事のコンビものでは性格が対照だったりするのだが、ここでの二人は似た者同士のちょっと悪ぶった大人というところだろうか。しかし、こと恋愛に関しては対照のようである。それゆえ劇中で描かれるのは、それぞれの恋の行方。微妙に生き方は違うようで興味深い。一途に恋人を想うリコに対して、自由奔放なソニーは潜入捜査中にボスの女に手を出す始末。立場を超えて愛し合うことになるのだが、明日の知れない立場ならそれもありえるのだろう。潜入することとは、相手と同じ世界で生きること、時に善悪の境界を越えてしまうことになる。立場が違えば善悪の基準も違ってくるのだが、恋愛においての基準はあるだろうか。相手を探るのは同じ、時に別世界に潜入することも?ある意味通じるのかもしれない。
 ストーリーとしては、結局のところ情報漏洩の黒幕はわからないわけで、そのあたり痛快ではないが、大人のラヴ・ストーリーとして観ることができる。ドラマとはまた違った角度から潜入捜査の深淵を見せてくれるだろう。


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