December 2016
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

Recent Trackbacks

Categories

  • HOBBY
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌

« December 2005 | Main | February 2006 »

January 2006

レジェンド・オブ・ゾロ

zoro 1850年のカリフォルニアは、アメリカ合衆国の31番目の州になろうとしていた。マスクの男ゾロことアレハンドロは、民衆が自由を取り戻すのを機に引退しようとしていたが秘密結社の陰謀を知り再びマスクをかぶる・・・

 前作では先代のゾロであるディエゴからその精神を引き継ぎ、エレナと結ばれたアレハンドロ。あれから7年、民衆のために戦い妻子と幸せな日々を送っていると思いきや・・、妻エレナとはうまくいっていない。息子にも正体を明かせないという、ヒーローにも家庭の事情があるようだ。そんな理由から、合衆国への併合を決める投票を機に引退を決意する。しかし、エレナは去ってしまった。まあ裏の事情があるわけだが妻には弱い、元祖ヒーローも例外でないのは少し切ないかも・・。ちょっぴりドジでセクシーな、このシリーズならでわの魅力的なゾロである。もちろんアクションは見ごたえがあり、前作以上に魅せる場面は多い。レトロなヒーローゆえに派手さはないが、激しくコミカルなアクションは爽快なものだ。
 続編としての見どころは息子ホアキンの活躍だろう。父親譲りの身のこなしで父を助ける。小さなゾロといった感じのアクションは面白い。そして妻エレナの活躍も痛快。こちらも父親譲りといったところでゾロのお株を奪う活躍をみせる。それにしても今度の敵は合衆国の壊滅を狙う秘密結社が相手、そして新兵器のニトログリセリン(これもレトロだ)である。いかにもハリウッド的で少々大げさなストーリーでは、スーパーヒーローではないゾロには苦しい展開かもしれない。もっとも、事件に巻き込まれた妻子を守るために必死に戦っているのだが・・。家族の危機を3人で切り抜け、絆を取り戻したアレハンドロである。そもそも素顔を見られたのが家族を巻き込む発端であるのだが、これで家族に秘密はなくなった。再び民衆の為に戦い続けるのだろう。しかし、マスクに隠したその心は怒りであったはず、家族を背負ったヒーローは何を思い戦うのだろうか。

プライドと偏見

pri 18世紀末のイギリス、田舎町のベネット家には5人の娘がいた。女性に相続権のない時代、母親は資産家に嫁がせようと必死。娘たちも結婚に憧れているのだが、次女のエリザベスだけは気にも留めていない様子。しかし、出会いは思わぬところに・・

 ジェーン・オースティン原作「高慢と偏見」の映画化である。原作は随分と昔の小説であって、描かれているのと同時代の作品なのだが古さを感じさせない。男女の恋愛、人との出会いに時代は関係ないのだろう。そして、恋愛におけるすれ違い、プライドや偏見によって揺れる心、それは現代に続く永遠のテーマかもしれない。しかし、この時代では女性にとって結婚が人生のすべて、格式が重んじられた時代でもある。そんな中、自由に生きる女性としてエリザベスが描かれている。当時の女性の憧れなのだろうか、この時代ではひときわ魅力的に映る。今作で演じるのはキーラ・ナイトレイであり、快活な女性の役が似合うのだ。
 物語は、近くに大金持の貴公子ビングリーが引っ越してきたことから動き出す。舞踏会でビングリー、その友人ダーシーとエリザベスが出会うことになる。しかし、プライドの高さからか、男を値踏みするような彼女たちを見下しダンスもしないダーシー。最初の印象はよくない二人である。ろくに話もしていないのに・・まさに偏見。エリザベスは人から聞いた話でダーシーをさらに嫌いになってゆく。よくあることだが、される側からしたら堪らない。これではまったく接点のないままだが、どこか惹かれあう二人。似たもの同士というところか、純粋に愛を求めているのは同じなのだ。やがてプライドを捨て告白するダーシー。しかし、思わぬ告白にまったく誤解したままのエリザベス。よくある男女のすれ違いといった物語であり、現代の作品の元ネタにもなっているらしい。それゆえに普通の恋愛ドラマのようにみることができた。
 人の心の本質的なものは今も変わらない。相手を分かり合えたとき、心に素直になったとき、すべての偏見や意味のないプライドは消えてしまった。ここに描かれるのは純粋な心であって、物足りないが単純で心和ませるストーリーにほっとする。なにより複雑なのは人の心なのだろう。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ

proo 天才数学者と讃えられた父が亡くなり、キャサリンは生きる気力を失っていた。精神のバランスを崩した父をたった一人で看病していたのだった。そんな父が遺した膨大なノートのなかに、数学者が長年求めていた定理の証明(プルーフ)が見つかる。キャサリンは自分が書いたというが・・・

 ジョン・マッデン監督がグヴィネス・パルトロウ主演で上演した舞台「プルーフ」の映画化作品である。再び二人が組んだ作品とあって注目である。物語は世紀の数学の証明は誰のものかという謎解きがスリリングであり、それにもまして証明に隠されたキャサリンと父との物語は深い心情を表現している。そして数学とシンクロさせた人生という謎解きは哲学的だが、信じる心があれば困難を乗り越えられるという人生の定理なのだろうか。描かれているのは人生での挫折。大切なものを失ったとき、努力が報われないとき、人はそれまでの自分に何をみるのだろうか。そしてすべてが信じられなくなったとき、人との交わりを絶ったとき自分を証明するものはいったい何だろう。物語の中で父親ロバートは、精神的な病から変わらぬ研究意欲はあっても理解できない言動をしている。俗にいう“イカレている”のだが、キャサリンは看護のため大学を辞めてまで父の研究を支えていた。結果は分かっていたはずだが、信じる心はそうさせる。しかし、その願いも叶わなかったとき、彼女の行為は意味を失ってしまった。はたから見れば情緒不安定な彼女は“イカレている”のかもしれない。そしてすべてを失ったとき自らを証明するものは何もない。大学を中退したキャサリンを信じる者はいないのだ。やがて自らも信じられなくなってゆく、父と同じ病気ではないかと・・。誰も知らないキャサリンと父の想い出、そして秘められた才能。人生とはそんなもの・・と思ってはあまりに切ないが、自身を証明するには助けが必要なのだ。キャサリンを信じるのはかつて父の教え子であったハルだけ。キャサリンの証明であることを解き明かす。しかし、キャサリンに前に進む勇気がなければはじまらない。自分を信じること、人を信頼すること、愛すること・・そこから人生を歩むことができるのだろう。人生の難問を解き明かすのは、数学以上に難解なことかもしれない。

スタンドアップ

standup 夫の暴力から逃れ故郷へと戻ったジョージー。しかし、“身持ちの悪い女”と周囲の視線は冷たく、父親からも理解されない。やがて家族を養うため鉱山で働くことに・・。そこは男性優位の社会、卑劣な嫌がらせに息子との絆も危うくなってしまう。

 1989年のミネソタ北部、鉱山の街での実話をもとにした作品である。女性の社会進出では先進国であるアメリカだが、本当に女性が権利を勝ち得るまでには困難な道のりであったことを垣間見られる。この中で描かれるのは長らく男の仕事とされてきた鉱山での労働。男性中心の職場へも女性の進出が始まったころ、まだ強い偏見と差別が残る時代背景が描かれている。もちろん鉱山での仕事は危険な重労働なのだが、彼女たちはそれをこなしているわけであたりまえだが男性と変わらないのだ。しかし、女性の進出を由としない経営者や男性優位の風潮から嫌がらせを受けてしまう。心無い中傷や露骨なセクハラ、そして街の住人の冷たい視線である。上層部への抗議はさらに事態を悪化させてしまう。女性に限らず弱者が虐げられることはしばしばであるが、弱者とて好んでしているわけではない。鉱山での仕事も家族を養うための手段であり、生きるための選択なのである。
 描かれているのは一人の女性の戦い。企業を相手に訴訟を起こすが、同僚の女性たちの協力も得られず大勢の前には無力にちかい。そして法廷で企業と戦うことに、それは男性中心の社会との戦いであり無謀とも思えるものである。それでもあきらめない、理不尽な社会に対する叫びであり彼女にとっては自身の過去との決別でもある。そう、ジョージーはかつての弱い自分から変わろうとしている。家族の為、人としての尊厳の為に・・。周囲に流されて生きてゆくならば、これほどの苦しさはなかったはずである。やがてジョージーの勇気に様々な思いを持った人たちが立ち上がる。皆、大きな力の前に目を逸らしていたに違いない。描ききれていないかもしれないが、世界を変えたのは小さな一歩であり、変える勇気、変わる勇気なのだろう。決して過去の話では無いはず、「スタンドアップ」力強いその言葉に勇気づけられる。

男たちの大和 YAMATO

movie12-3 2005年4月のこと、老漁師の神尾のもとへ戦艦大和が沈んだ場所へ行きたいという内田と名乗る女性が尋ねてきた。皆に断られていた彼女を乗せ、古い小さな船は遥か沖合へと向かうのだった。やがて内田の語る父の話に、神尾の眼前には60年前の光景が蘇る・・

 戦後60年を記念して作られた大作映画である。60年の月日は遥か昔の話なのか・・それとも昨今の話であろうか。生存者の話を基にしたドキュメント「男たちの大和」が原作であるから、史実に沿った時間軸の中で描かれるドラマは生々しく痛切な心の痛みを伝える。当時を知る人たちがいるのだから、けして終わったことではないのかもしれない。
 映画として見るとさすがに予算をかけた大和のセットはリアルなもので、CGを駆使した映像と相まって生々しい戦闘シーンを再現している。こんなにリアルにできるのならば、ぜひ娯楽作もこれくらいの映像で造ってほしいと思えた。しかし、この作品はシリアスで淡々とした描かれかたである。戦争モノの作品ではどう描かれるのか注目されるが、最近の日本の戦争映画では描かれ方も変わってきたようだ。悲劇だけ、はたまた正義や悪といった一方的な見方ではないのだろう。60年を経て戦争を客観的に見られるようになったのだろうか。もちろん兵士たちのドラマも描かれているのだが、あくまで伏線でしかない。沈むべくして出撃した大和の最後は分かっているだけに切なさが残る。そのクライマックスは大和の特攻、そして沈むまでが描かれている。それだけ・・そう、それだけなのである。不沈と云われた大和の最後に戦争の現実を見せ付けられる。その時のこれでもかといわんばかりの激しい戦闘シーンは少し長い感じだが、猛攻にさらされる大和と決死の戦いに臨む者たちは語らずとも何か伝えているようだ。何のために戦うのか?残された者への想い、託された願い、様々な想いが伝わってくる。今作では少年兵の視点で描かれていて、戦争の本質を見せ付けられるようだ。
 この作品は現代に生きる証人たちと家族の物語。それは過去と現在そして未来へと想いを繋ぐ物語でもある。伝わるメッセージは観る人それぞれに違うと思えるが、60年の節目として意義のある作品ではないだろうか。

« December 2005 | Main | February 2006 »