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October 2005

機動戦士ZガンダムⅡ/恋人たち

gundam_z2 宇宙世紀0087年、軍を二分する「ティターンズ」と「エゥーゴ」の抗争は本格的な武力衝突へと進みつつあった。そんななか地球へと降りたカミーユはティターンズの強化人間“フォウ”と出会う。恋する二人、しかし戦争は哀しい現実を突きつける・・・。
 
  シリアスな世界観のガンダムに「恋人たち」のサブタイトルが付いて、どういった作品になるのかと興味津々であった。前作が「星を継ぐ者」といった重々しいタイトルゆえに軟派なタイトルに違和感があったのも確かだが・・・。もっともTV版では中盤の核心部分であるカミーユとフォウの恋だから、中心に描かれるのかと思っていた。しかし実際にはさらりと流されてしまったようで拍子抜けである。まあ総集編的な構成ゆえに淡々としているのは仕方がない。でも、それだけでないのは新訳ということなのだろう。TV版では断片的に描かれていた各キャラの恋模様が集約されて、見事にテーマとしてまとまっている。あまり気にもしていなかった部分だが、作品を通してキーになっているのだと実感した。あらためて観てみるとなるほどこういった見方も面白いものだ。そして、客観的に恋模様を描く中にも、カミーユの視点で“大人たちの都合”による戦争と皮肉る。シリアスなガンダムの世界は変わらないのだ。そんな世界でも恋に都合はないのかも、それには大人も子供もないのだろう。しかし戦いに駆り立てるのもまた恋なのかもしれない。そして次回作「星の鼓動は愛」意味するところは分からないが、“愛”とはどういった解釈がされるのか楽しみである。
 20年も前の作品ゆえにやはり気になる映像だが、前作を観てまぁこんなものといった思いはあった。それはエイジングの効果は自然な感じということなのだが・・。しかし今作でのエイジングや新規のカットには新旧の差異が見て取れる。あえて分かりやすい違いを出したのか、それとも次回へのステップなのだろうか。観ていると次第に古さを感じなくなったのは巧みな演出なのかな。旧作品を蘇らせるといえばリメイクされる昨今だが、アニメもしかりである。現在でこそできる新たな映像手法として、オリジナルを大切にするのありだろう。

DOMINO

domino 逃亡犯の身柄拘束など危険な仕事を請負うバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)。ドミノ・ハーヴェイは退屈な日常からこの世界に身を投じ、やがて仲間たちとの信頼も築いてゆく。しかし、ある現金輸送車の強奪事件にかかわり窮地に追い込まれることに・・。

 実在の女賞金稼ぎ“ドミノ・ハーヴェイ”の生きた軌跡を描く。そう、本人は映画の完成後に35歳にして亡くなっているのだ。何ともミステリアスで波乱に満ちた人生である。裕福な家庭にありながら、あえて危険に身をさらしてまで何を求めていたのか?そんな彼女の心の闇を描き出すのはトニー・スコット監督。前作「マイ・ボディガード」では暴力の中に生きる男を通して、虚無感や怒り、そして愛を描いていた。今作は女性が主役であるが、やはり空虚な心を映し出している。実在の人物を描いているだけに単なるアクション作品ではない重みが感じられるものだ。そんなドミノを演じるのは“キーラ・ナイトレイ”、これまでにも「パイレーツ・・」「キング・アーサー」で闘うヒロインを演じているが、今作では高貴なイメージとは反対のダークなヒロインである。汚い言葉と態度も様になって主役としての存在感を見せる。そして脇を固めるのは“ミッキー・ローク”、ワイルドでおちゃめ(?)な不良オヤジの本領発揮である。最近ひき立て役が多いが、控えめでない存在感でサポートしている。
 気になるのは“人はいつか死ぬ”劇中に何度かでてくるフレーズである。退屈な日々をただ生きる。それは生きていることなのか?生と死をドミノはコインの裏表で表現しているが、生きるということの対極にあるのが死である。愛を捨てたドミノが求めるのは生きる実感だろう。それを得るのは生死の狭間でしかないのか?あまりにも極端な生き方に心の深淵を見せられたようだ。それでも愛する心を捨てきれないのは、人としての希望であり生きる辛さなのだろう。もっとも、仲間達に家族の安らぎを求めていたのかもしれない。はたしてドミノは愛する心を捨てたのか、それとも取り戻したのだろうか。あまりに短く駆け抜けた人生であり自ら幕を下ろした人生、どういう意味があるのだろうか。“彼女の生きた証”それは映画とともに残るだろう。しかし、あまりにも虚しく切ない。

セブンソード

7_swords 清朝時代の中国、反逆を恐れた朝廷はすべての武道の禁止を発令した。しかし、この期に乗じて略奪や残虐な武道家狩りをする者が現れた。残虐行為から人々を守るため、神秘の山“天山”より7人の剣士と7振りの剣が集結する。

 7人の英雄の活躍、さらに愛と裏切りを絡めて描いた“武侠”作品である。原作は「七剣下天山」、痛快時代劇といえるものだがこういった作品を“武侠”というらしい。もちろん見所はアクションだが、近頃の作品で使われるワイヤーアクションは少なく現実的な戦いを魅せる。それは昔ながらの武侠にたち返ったともいえるが、立体的な戦闘シーンには昨今の流れを垣間見られる。舞台となるのは1600年頃の中国。歴史上の出来事をモチーフにした作品であるが、ここに描かれるのはファンタジーの世界に近くゲームの題材にもされている不思議な“剣の力”が存在する世界。意外と馴染みやすい感じがしたのだが、漫画的に描かれる敵の軍団に日本のヒーロー物を連想してしまった。それは分かりやすい善と悪の構図だが、そこに絡めた愛情や裏切りといったエピソードがテーマは何か複雑にしているようだ。それゆえに魅せるのは7つの剣の個性だろうか、独創的な剣を操る剣士と一体となった戦いは痛快だ。それぞれ特徴のある7つの剣による必殺技などゲームや漫画のようでもある。それにしても気になるのは、この剣の使い手たちのエピソードが描ききれていないところ。そもそも山に篭っていた理由も剣の由来もよくわからない。それぞれ心に傷を持つ者が剣と一体となって戦う。主役は剣士と剣であるならばそのエピソードを知りたいものだ。2時間半の大作だが全てを詰め込むには心もとない。そう思っていたら、DVD版(4時間?)ではそのあたり補足されるようなので期待できそうだ。
 この作品で注目したいのは剣士の個性である。村人の危機を救うのは7人の剣士だが、個人としては絶対的な力をもってはいない。7人の力、剣の力を合わせなければ強さを発揮することはできない。剣とは使い手の心を映す鏡であり、7つの剣の個性は剣士の心を体現したものだろう。その個性は弱さであり、強さでもある。互いに助け合ってこそ最強の剣なのである。そして、いかに最強の剣をもってしても邪悪な心で扱えば凶悪な武器でしかない。剣を持つ者の正しき志なくして力とはなりえないのである。深いメッセージをなげかけているだけに、痛快時代劇として見えてしまうのは惜しい。

シン・シティ

sin_city 暴力と犯罪の渦巻く街“シン・シティ”。正義など無いに等しいこの街で、ふとしたことから愛する者の為に命を懸ける3人の男たち。それぞれの想い、戦いはどういった結末を迎えるのか・・・。

 アメコミの実写化はヒーロー物からついに劇画の世界へとひろがった。ダークな世界“シン・シティ”を舞台にさまざまな過去を持った住人達が織りなすドラマである。アメコミの劇画ともなると馴染みがないだけに先入観など無く観る事ができた。すべてが暗く荒廃した、時代背景も不明なパラレルワールドが再現されている。劇中ハードな暴力シーン(R15)も挿入されているが、全編モノクロ調の為か強烈な刺激は抑えられているようだ。さらにシーンごとに赤、青、黄のカラーだけが色付けされているのは印象的で、エピソードを彩るキャラを浮き出させる。それにしても観ていて思うのだが、どうも平面的な動きしか感じられない。それは狙いなのだろうが、映画というよりコミックそのものに見えてくるのは斬新な試みだろう。ストーリーとしてはコミックから3つのエピソードを紡いだかたちである。それぞれのエピソードの主役である3人の男をブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェンが演じている。その他、ジェシカ・アルバなど多彩なキャストの共演も見所だ。エピソードは、少女を救うため権力者と対決する刑事ハーディガン(ブルース・ウィリス)、愛した娼婦の復讐を誓う大男マーヴ(ミッキー・ローク)、娼婦の自治区オールドタウンをギャングから護るため戦うドワイト(クライヴ・オーウェン)を描く。それぞれが魅せるのは愛の形であり、自己犠牲、復讐、擁護とでもいえるだろうか。女の為なら命を投げ出す。なんでもありの街で無償の愛を貫く不器用な男たちの姿を魅せつける。しかし、敵対する側が見せるのもまた歪んだ愛の形だろう。それは犯罪であるが、この物語の主人公は人を殺すことも厭わない。権力者が支配する世界ではそれが正義かどうかは見方によるのだが、貫いた愛は真実である。
 ここで描かれているのは架空の街であり無法の街だが、暗黙のルールで成り立っているわけで、それが破られたとき破ったとき多くの血が流れる。綺麗事では済まない、現実世界の闇の部分を凝縮しているようでもある。そんな救われない世界に男たちが残したモノ、それは愛という希望ではないだろうか。

ステルス

stealth アメリカ海軍によって開発された新型のステルス戦闘機。ベン(ジョシュ・ルーカス)ら精鋭パイロットによる実戦でのテストが行われる中、新たに加わったのは人工頭脳を持った無人戦闘機“E.D.I.(エディー)”だった。作戦には正確無比のマシーンであったが、自我に目覚め指揮を離れた行動をはじめてしまう。

 ごく近い未来に現実となりそうな無人のステルス戦闘機。最新のVFXによって表現される映像はリアルなものだ。スピード感のある映像と相まって、空母への着艦などあたかも実際の映像のようにみえる。ただしタイトルのステルスとしての見せ場がないのは物足りない。それにヘンリー役のジェイミー・フォックスが活躍すると思いきや完全に脇役であった。よい意味で期待を裏切られるが、描かれているのはステルスというよりも無人戦闘機の恐怖、いや人工知能の可能性ではないだろうか。確かにエディーは暴走するのだが、ターミネーターのような敵意からではないのだ。SFではよく描かれるロボットの知能や自我。たいがい人間の脅威となってしまうのだが、この作品でもそれは同様である。ただし、エディーの行動は人の心を学んだ結果であって、決して人を敵としていたわけではないということ。より人に近い知能をもち人から学ぶことができた。それが災いして良いことも悪いことも学んでしまう。人が成長するのと同じなのだ。それゆえ未熟な思考によって目的達成の為に行動してしまう。マシーンの論理的な答えは、1か0の行動であってあいまいな行動はないのである。それに比べここで描かれる人の行動、世界の構図のほうが遥かに複雑で分かりにくいだろう。それは感情的に行動するベンにも言えること、しかしエディーはベンから人の心を学んだわけで、仲間を守ることも学んでいる。そのあたりのベンとの交流は重要なところなのだが、描ききれていない印象でたんなるSFで語るには惜しい気もする。
 この作品が示した人工知能の暴走、マシーンとのコミュニケーション。それらに絡めて描かれた軍内部の陰謀や友情に愛情といった人の心。描かれたのは見えない戦闘機ステルスだが、本当に見えないのは人の心なのだろう。

ファンタスティック・フォー

fantastic_4 宇宙嵐の実験で不思議な力を身につけてしまったビクターとリードの仲間達。リード達4人は、その能力で人々を救ったことにより“ファンタスティック・フォー”と呼ばれるようになった。しかし怒りに燃えるビクターは、金属の体と強大なパワーを得て世界を脅かす邪悪な存在となっていた。
 
  随分と古い60年代のアメコミのヒーローだが、昨今映像化されている「スパイダーマン」や「ハルク」「Ⅹ-MEN」といったヒーローの元祖ということらしい。たしかに彼らの持つ能力や姿に後のヒーローを垣間見られるし、現在に至るルーツとしてダブらせて見てみるのも面白い。それゆえに映像としては先を越された感もあり、インパクトが足りない気もするのは仕方ないのだろうか。それでも笑いを織り交ぜながら、理屈の要らない影のないヒーローらしさを見せるのはこの作品ならでわだろう。映像として面白い彼らの能力とは、リード(ヨアン・グリフィズ)はゴムのように伸びる体を手に入れ、スー(ジェシカ・アルバ)は透明化する。そして燃えて飛ぶ男に、岩のような皮膚の怪力男。やはりハリウッドの映画であるから、映像表現は豪華で楽しめる。しかし、ありえないシーンに、「どうして?・・・」などと言ってはいけない。人の夢を形にしたものがヒーローである。常識などお構いなしの技を繰り出す、理屈など要らない元祖ヒーローなのだ。
 しかし、ここでの4人はたしかに超人なのだが、普通の生活をしているのである。ときにはそれぞれの立場で能力に悩んだり、楽しんでいたり、なんか人間的で身近に感じられる。持てる力は世の役に立てようと言ったところなのか、姿は変わっても普通に人として暮らすヒーロー。それは文化の違い、受け入れる間口の広いアメリカらしさなのだろうか。対して邪悪なビクターもまた、力がすべてといったアメリカの一面を映しているようにも見えるのだが・・・。どちらが勝つのか?もちろんヒーローは勝つのだろう。でもこの闘いの行方は・・、余談だが熱した金属を急に冷やしたら?それって専門的には“焼き入れ”ってこと、より強くなってしまうのではないかな。続編も匂わせているからそれでよいのかもしれないが、どうも決着はつきそうにない。

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